哲学とは、わたしたちが通常当たり前だと思っていること(自明なこと)からいったん身を引き離し、 「そもそもそれって何なのか」といった遡行的な問いを投げかけるところからはじまります。「てつがくカフェ@せんだい」では、 そのような問いを参加者どうしが共有し、「哲学的な対話」を とおして、自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験してもらうことを目的としています。
 他の参加者との「対話」のなかで、あらためて自分の考えに気づかされることはとても刺激的な体験だと思います。また、他人の考えにじっくりと耳を 傾ける機会の少ない私たちにとっては、このような<対話の場>を設けることそれ自体に大きな意味があるのではないでしょうか。
 これからも、仙台で/仙台から、どんどんおもしろい企画を展開していこうと考えています。

■スタッフ■
西村高宏  福井大学 医学部 准教授
      (専門分野:臨床哲学)
近田真美子 東日本大震災を〈考える〉ナースの会
東北福祉大学 健康科学部 講師
      (専門分野:精神看護学)
辻明典   福島県南相馬市立中学 講師(臨床哲学)
      てつがくカフェ@南相馬
三神真澄 (地域サービス業)
房内まどか(広告代理店関係)
綿引周   東北大学大学院(哲学)
橋本向子  東邦大学大学院(看護学)
渡部純   てつがくカフェ@ふくしま
      福島県立高校 教諭(倫理)
伊藤照手  (編集関係)
齋藤さかえ 東北大学 講師(理学)
千葉真澄  東北文化学園大学医療福祉学部
小松健一郎 (会社員)
木村涼子  東北文化学園大学 助教(母性看護学)
尾崎修一  (会社員)

一ノ瀬幸帆 ユースてつがくカフェ(東北学院大学文学部)
  
池田成一  てつがくカフェ@いわて
        岩手大学人文社会科学部 教授

奥山心一朗 てつがくカフェ@やまがた
        cherry music

栗原直以
しばたはる(さくら)

■募集■
一緒に「哲学カフェ」のスタッフとして活動してくださる方を募集しています。
関心のある方は西村 mmp0861*gmail.comまでご連絡ください。
(その際、*を@に変更してください)

■〈3.11以降〉読書会「震災を読み解くために」始動!■
現在、震災を読み解くための読書会を準備しています。
名前は「〈3.11以降〉読書会『震災を読み解くために』」です。
みなさんと〈読みの力〉を共有したいと考えています。
興味のある方は、philcfsendaiaw@gmail.com(綿引)までご連絡ください。

■お知らせ:新聞掲載等■
毎日新聞(2016年3月7日朝刊)で「てつがくカフェ@せんだい×とうきょう」の活動を取り上げていただきました。
医学書院「かんかん! 看護師のためのwebマガジン」で、連載「震災を〈看る〉? 対話をとおして専門性をほぐす」を始めました。
河北新報(2013年1月15日夕刊)で「考えるテーブル てつがくカフェ」の活動を取り上げていただきました。
『すばる』(集英社)(2012年12月号)「ひと」のコーナーに取り上げていただきました。
「てつがくカフェ@せんだい」の活動が、日本経済新聞(2012年5月9日)31面「不屈の東北人」で紹介されました。
共同通信社による「てつがくカフェ@せんだい」の記事(「ルポ・日本新景『國分功一郎さんと行く哲学カフェ 言葉を紡ぐ被災地の営み』」)が、沖縄タイムス、熊本日日新聞、中国新聞、四国新聞、福島民報、東奥新聞、河北新報などに紹介されました。
「てつがくカフェ@せんだい」の活動が、毎日新聞朝刊(2012年2月7日)に紹介されました。
「てつがくカフェ@いわて」の活動が、岩手日報(2011年12月11日)27面(特集面)に掲載されました。
「てつがくカフェ@せんだい」「てつがくカフェ@ふくしま」の活動が、毎日新聞・東京夕刊(2011年11月24日)朝日新聞(2011年5月30日)「リビング仙台2010年11月20日号(終面特集)」「仙台市 市政だより2010年10月号」に掲載されました(少しですが)。

■お知らせ:『ミルフイユ 04』(赤々舎)に掲載されました■

 震災後に初めて開催した「第1回考えるテーブル てつがくカフェ」(テーマは「死者に〈ことば〉をあてがうということ」)の模様が、『ミルフイユ 04』に掲載されました。

『ミルフイユ 04 / Mill-feuille 04』(1,575円)
アートディレクション:中島雄太
企画/発行:せんだいメディアテーク
発売:赤々舎
詳細は赤々舎さんのHPをご覧ください。全国の書店でも購入できます。

■お知らせ: World Association for Medical Law にエッセイを掲載!■

 World Association for Medical Law の Newsletter_Volume4 に、震災以降のてつがくカフェ@せんだいの活動を紹介したエッセイを書きました。
タイトルは、“The Earthquake Disaster is Trying Us : Thinking About the Disaster, Within the Disaster”です。5-7頁をご覧ください。


■お知らせ:第57回「考えるテーブル てつがくカフェ」開催決定!■

テーマ:「震災遺構」って何?
日時:2017年2月18日(土曜日)14:00〜16:30
場所:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
ファシリテータ:西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)
ファシリテーション・グラフィック:近田真美子(てつがくカフェ@せんだい)
対象:どなたでもご参加いただけます。
参加無料、申込不要、直接会場へ
問合せ:0861*gmail.com(てつがくカフェ@せんだい 西村)
   (その際、*を@に変更してください)
主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
助成:一般財団法人 地域創造

《今回の問いかけ》
 被災地ではいま、「震災遺構」をめぐる議論が繰り広げられています。
 被災地の自治体は、震災以降、「遺構」にかかわる調整会議や委員会、さらには有識者会議などをそれぞれに立ち上げ、 市民からの意見などを踏まえながらこの困難な問いに向き合っています。 後世に教訓として伝えるために被災した建物を「遺構」として保存(存置)するべきか、あるいは直接的な被害を被った被災者があらためてこの惨事を思い起こすことがないように、 すべて解体するべきか。被災した自治体が最終的な判断を下すまでに相当過酷な道のりが待ち構えていることは容易に察することができます。
 この問いが困難なのは、それが、市民からの意見を集約すればするほどひとつの明確なこたえや方向性から遠ざかってしまうような、まさに一筋縄で はいかない性格を備えたものだからなのかもしれません。震災で43人の尊い命を喪った宮城県南三陸町の防災対策庁舎のように、 保存が決定するまでに20年余りを要した広島の原爆ドームにならい、保存の是非に関する最終的な判断を次の世代に託した例もあるほどです。 とはいえ、「遺構」を残すべきか残さざるべきか、あるいはそうすることがよいのか悪いのかなどといったそれぞれの立場の〈隔たり〉や〈対立〉 を際立たせるような問いのたて方からだけは、この困難さを解きほぐすには相当無理があるように思われます。なぜなら、そこには、そもそも市民にとって 「震災遺構」とは何なのか、あるいは「遺構」として「価値のあるもの」、「相応しいもの」とははたしてどのようなものなのか、さらには、被災地が残 すべきものとはそもそも何なのかなどといった、本来「震災遺構」が備えている(べき)特性や意味そのものについて吟味する丁寧さが抜け落ちているように思われるからです。
 先日、朝日新聞の朝刊(2016年10月11日付)で、「壊れた女神像と共に模索する女子大生」という見出しがつけられた面白い記事(編集委員・石橋英昭)を見つけました。 その記事は、石巻出身で現在は東京の芸術大学に通う大学生が、津波で片足をなくした石巻の「自由の女神」像を譲り受け、 それに「遺構としてのオリジナルの価値」を見出しながら卒業制作を行なっている、と伝えていました。自由の女神像は、FRP樹脂製で、 震災で壊れる前は背丈10メートルほどもあり、石巻の会社経営者によって旧北上川の中州にオープンしたマリンパークに据えつけられていたのだそうです。 また記事によれば、震災当初、この破壊された港町に立ち続ける女神像を「復興の象徴」とみる人もおり、ニューヨーク市長は「不屈の精神を表す」とのメッセージを寄せ、 石巻市長も「震災遺構として考えていいのでは」と発言したとも書かれています。しかし、その後、像の劣化が激しくなったことで切断・撤去され、 それを「遺構」として保存しようとする機運も急速に冷めてしまったとのことです。その機運の冷め具合にあわせるかのように、 この像を「遺構として残す価値がある」と考える人たちも一気に減少していきます。そしてその際、そう考える理由の大半が、そもそも「石巻に像が存在した歴史はごく浅い」、 「レプリカの自由の女神像は日本中のパチンコ店やラブホテルでおなじみで、『石巻らしさ』がないからか」などといった、「遺構としての価値」の有無に関するものだったそうです。
 そこで、彼女のなかでは次のような問いが芽生えてきます。「被災地が残すべきモノって何だろう」。「市民が理想とする震災遺構って何」。 「同じ中瀬にあり、日本最古の木造教会堂として知られた旧石巻ハリストス正教会は、現地で復元される。 石巻では惨事の舞台、大川小校舎の保存も決定。岩手県陸前高田市では、枯死した『奇跡の一本松』が人工的によみがえった」。 はたして、それらの被災した建造物とこの女神像との何が異なっているのか。また、それらのあいだに「遺構としての価値」の有無を際立たせるような いかなる視線や基準があるというのか。 わたしたちは、「遺構」を残すべきか残さざるべきかといった〈隔たり〉を際立させる議論の前に、 彼女の投げかけるこの直線的な問いかけに真摯に向き合ってみたいと思います。この作業をとおしてこそ、はじめて、 「遺構」の問題がもつ困難さを解きほぐすことに着手できる糸口がつかめるような気がします。みなさま、是非ご参加ください。
西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)

■お知らせ:第58回「『相馬クロニクル』の作品から『想像力』を問い直す」(ラジオ)■

テーマ:「『相馬クロニクル』の作品から『想像力』を問い直す」
日時:2017年2月25日(土曜日)15:15〜17:45
場所:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
ファシリテータ:辻明典(てつがくカフェ@せんだい)
ファシリテーション・グラフィック:三神真澄(てつがくカフェ@せんだい)
対象:どなたでもご参加いただけます。
参加無料、申込不要、直接会場へ
問合せ:office*smt.city.sendai.jp(せんだいメディアテーク)
   (その際、*を@に変更してください)
主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
助成:一般財団法人 地域創造
*下記、音声作品をお聴きのうえ、ご参加ください。

〈相馬クロニクル音声作品〉
 対話の前に、「3がつ11にちをわすれないためにセンター」が企画する上映会「『星空と路』上映室」にて、 3つの音声作品をお送りします。ぜひお聴きのうえご参加ください。
日時:2017年2月25日(土)14:30〜15:00
会場:せんだいメディアテーク7fスタジオシアター
音声作品:
「緊急時避難準備不要区域より」(2011)
「Blind」(2014)
「Atomic town」(2015)

《今回の問いかけ》
物語を読みながら、景色を思い浮かべる。
詩を詠みながら、情景を思い浮かべる。
では、音楽を聴いているときは? 朗読を聴いているときは?
ラジオを聞いているときは?
わたしたちは、何かに耳を澄ませているとき、どんなことを思い浮かべているのでしょうか? 誰かの声や、せせらぎや、風が流れる音に耳を澄ましているとき、わたしたちはそれらに注意を払いながらも、 どこかの風景を思い浮かべて、世界の質量を感じているのでしょうか?
感じているとすれば、どのように?
原発事故によって放射能が大地に降り注いでから、そこにあったはずの暮らしや、生活の手触りが、 傷つけられてしまった、突然に失われてしまった、あるいは傷つきつつ失われつつあるということを、 情景とともに想像することはできるのでしょうか。 相馬クロニクルは、東日本大震災と福島第一原発事故をテーマに記録された映像や音声作品を通して、高校生の視点から伝える活動をしています。 今回は、「緊急時避難準備不要区域より」「Blind」「Atomic town」という3つの音声作品を聴いたあとに対話をします。 そして作品を通して感じたこと、考えたことなどについて、みなさんとともに言葉を交わしあいながら、 「想像力」とはなんなのかを深く、考えていきたいと思います。 ぜひご参加ください。辻明典(てつがくカフェ@せんだい)

■お知らせ:〈3.11以降〉読書会 再始動!■

 これまで「てつがくカフェ@せんだい」では、震災という〈出来事〉を対話のなかで語り直す場を拓いてきました。今後は、それらの対話のなかで見出された〈ことば〉や〈語り〉を、 震災を読み解くための「読書会」を開催することでさらに逞しくしていけたらと考えています。 〈読み〉の力を共有しませんか。皆様、是非ご参加ください。

課題本:森一郎『死を超えるもの  3・11以後の哲学の可能性』(東京大学出版会)
日時:調整中
場所:カフェ ド ギャルソン
   (宮城県仙台市青葉区国分町3-2-2 おいかわビル 2F)
問い合わせ先:E-mail philcfsendaiaw@gmail.com(綿引まで)
facebook:https://www.facebook.com/events/1109288952480235/
主催:てつがくカフェ@せんだい

◇この読書会について◇
 〈3.11以降〉読書会「震災を読み解くために」は、あるひとつの本を取り上げ、それを参加者みんなで一緒に読んでいくものです。 この読書会では、他の人々と共に読むということを最大限活かし、一つの本に対する人々の多様な「読み方」を大切にします。そうして参加者どうしが協力し合い、触発し合って、 〈震災〉という出来事を――それを直接に扱う「震災関連書」を一人で読むだけでは辿りつけないようなところまで――深く「読み解く」ことができるような場でありたいと願っています。